旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

2021年3月1日

夫が我が家に帰らなくなって3か月が過ぎた。
あの日以来、夫は精神的にフラットであると信じたい。
医師や家族たちに言われた言葉をひっくるめて簡単に言えば「フラット」そんな感じ。
逆に私はといえば気持ちに山あり谷ありで今は谷に居る。

転院前の病院では医師に何度も聞いた。
「現在の意識とか反応はどうですか?」
「声掛けに視線が動くことはなく追視もしている感じはないけど、痛み(点滴の針を刺すとか)には顔を歪めているようにも見えるしベッドサイドで人がいると気配を感じてる気もします。」
この医師の「~のようにも見える・気もする」って言葉は回復の兆しを示唆しているようだけど、私は内心信じていなかったんだよね。
気もするってなんだよ⁉はっきりした答えはないのか⁉
何人かは「絶対目が覚めるときが来るから。夫くんはそういう気合を持ってる人だ」って言われたんだけど、覚めるなら鎮静剤を控えた時点で覚めだしてるだろうって感じてた。
医師も言ったよ。「回復する人は1か月くらいの間にグンと回復してあとは緩く回復する。1か月くらいの間に回復しない人はその後目覚ましい回復は望みにくい。」って。
だから「気もする」っていうのは私に完全に諦めさせることがないようにするための言葉なんかなって思った。
人が覚醒する可能性なんて誰にもわからないんだと思う。だから0%でない以上、あり得ませんとは誰も言わない。
だから私は数%の可能性とのはざまで期待と失望に踊らされている。

私が「夫の頭の中」を想像して夫の苦しみだったり悔しさだったりを不憫に思ったり、その想像する苦しみを人に吐露すると
「そんな風に夫くんの意思があるかどうかもわからないのに、わからないことを考えすぎて苦しむのは止めた方がいい」
って何人にも言われた。私の苦しみを少しでも減らす方法を思って言ってくれてるんだろう。でもそんなことを考えてしまうのは私だからとは思ってる人は少なそう。
妻だから一番近い立場だから大切な人だから最愛の人だから、そういう思考になってしまうことはわからないままただのネガティブな人として片づけられる。

私は一度は夫の状態を話したことのある人に追って夫のことを話さないようにした。
私に向けられる「励ましの言葉」は絶対私のためを思っての言葉だとはわかっているけど、私の言葉の真髄はいくら言葉で伝えたくても伝わらないし、伝わってない状態で受ける励ましの言葉は私に突き刺さり私の至らなさとしてえぐるから。
「力になれることがあれば言って」と言ってくれる人は何人もいたけど、申し訳ないが実際私の力とはなる人は少なかった。
今はブログやTwitterで繋がった「同じような経験をした人」の言葉だけが力となっている感じ。
医療への期待も大切な人に対する気持ちの持ち方も心の中の葛藤も似ていて、「本当の私の気持ち」をわかってくれるような気がしていて楽だ。
それは傷の舐めあいかもしれないけど、同じような経験をしたけど前を向いている人の存在は私の顔を上向きにさせてくれる。
どんなに身近な友人・知人より今はその交流が支えとなっているが、あまり頼りすぎないようにとは思っている。倒してしまいたくないから。

本来、気持ちを一番共有できるのは家族だと思っていた。
夫の次に一番近い家族は子供たちだけど、彼らに私の不安や苦しさを全面的に晒すことはできない。私と同じ沼に引きずり込みたくはないし、彼らの今できることに向き合ってほしいから。
実母は同居しているのである程度は気持ちを共有してくれながらも私の思考をたしなめてもくれるので居てくれて本当に助かっている。
しかし解せないのは実家サイドでこれも私の心をえぐる存在となっている。
いくら年老いた両親とはいえ息子(夫)のことを気にしているだろう、もう何十年も離れて生活している兄弟とはいえ・・・という気持ちが私にはあるのだけど私ほどの熱い思いは見えない。
感じているけど表面には出さないだけなのか、感じていないのか、まったくわからない。
「ふ~ん」「そうか」糠に釘、暖簾に腕押し。感情からの言葉がまったくない。私の感情に共感するような言葉もない。
それは私のように感情で動くより理性をもって受け止めるべきであるという師範のよう。そういう人も必要だとは思うが義実家サイドがみんなそうなので現状をお知らせするたびに私の心はえぐられることになる。
聞いてもこないんだからこちらからもうお知らせするのは控えよう。そんな気持ちになる。




私は今は谷に居る。
自分を立て直そうともがくときに自分中心で物事を考えるときに思うことがある。
「夫が救急車を呼んだ時持ちこたえられなかったら、一次救急から三次救急に搬送される途中で途絶えてたら、手術後の出血多量に耐えられなかったら」
あの時に夫の命が途絶えてたら、私は少し楽だったんだろうか?スムーズに前を向けたんだろうか?別の苦しみを背負ってたんだろうか?と。
そんな風に考えてしまい、もういっそのこと夫と共に死んでしまいたいとさえ思う。

大丈夫、思うだけ。
そんなことになったら「次の私」を生み出してしまうし、「次の私」になるのは私の大切な人たちだとわかってるからそんなことは絶対しない。
私は知っている。
今は谷を彷徨っていても、しばらくすれば平地に移動して、山に登ることもあるだろう。
だから歩き続ける。