旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

2021年3月14日のこと

2020年11月29日からこのブログを始めました。
救急搬送された夫が無事に回復したら読ませたいと思い、夫の状態や私の気持ちを備忘録的に書き綴ってきました。
そして夫はこのブログを読むことなく2021年3月14日未明に亡くなりました。
でもきっと夫にはこのブログに綴ったことがわかっていたんだと思います。

私の抱く不安や吐き出す弱さ、それ故の冷たい部分を晒したにもかかわらず、読んでくださった皆様、励ましてくださった皆様にはただただ感謝するばかりです。
ありがとうございました。
夫が直にこのブログを目にすることはもうありませんが、まだしばらくは続けたいのでお付き合いいただけると幸いです。




入院から3か月と12日。夫は私たちが見たことのない地へ旅立つ準備を始めました。
コロナ禍で面会も許されない日々の中、毎夜「夫はどうしているだろう?容態は安定しているのだろうか。夜中に病院から電話が鳴るんじゃないか。」と思いながら眠りにつきました。その環境に慣れだしたとはいえ毎日が不安で、時折夫のいる病院の方を眺めては思いふける日々でした。転院の話が出だしたときはその先の病院を受け入れがたく迷ったこともありました。また、この状態が何年続くのか人の命の長短などわからない中、遠い将来への不安に圧し潰されそうになることも多々ありました。四肢障害・意識障害となり、自分の意思を発信できない状態の夫の頭の中・心の中の「想い」を考えると不憫さと、虚しさで苦しい日々の連続でした。それでも「夫が頑張っている」と思えるからこそまた前を向くこともできました。

決して回復に向かっていると言えない状況ながらも安定している日々でしたが、突然その知らせはありました。
未明の電話に急いで病院に向かいましたが既に心停止しており、呼吸器だけがむなしく動いていました。私の到着を待って医師による死亡宣告が行われました。大切な人が亡くなるということは悲しくない訳がないのですが、私の心は不思議と安定していてやすらぎすら感じていました。夫が「苦」から解き放たれたことにより安堵を感じていたのです。




通夜の日、親族が帰り会場には私と二人の子供だけが残りました。
昔は線香の番をしながら夜伽をしたものですが、今は防災目的で線香もろうそくも夜中はLEDのものが使われており、うっかり寝込んでも線香が途絶えることはありません。
しかしそれなら安心と寝入ることはできず、私は夜伽で親子4人で過ごせるほうがうれしくて、夫を亡くした悲しみは薄かったです。あれだけ会いたいのに会えなかった夫がすぐ横に寝ているのですから。うとうとしながらも起きては夫の顔を覗き込みその安らかな顔に安堵して声をかけるを繰り返していました。
いつものイビキは聞こえないものの、その心臓が止まっているのが本当に信じられなくて荼毘に付すことなくとも夫の体はこのまま維持されるのではないかと思いました。私はすぐそばに夫がいることが本当にうれしかったのです。

人の世の常識を逸脱した話かもしれませんが、夫は私の気持ちを感じて安心したのかもしれません。
2021年3月13日 - 旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ
夫が亡くなる前日に書いたエントリーは私の本心ですが、普段私が夫に対して言わなかった気持ちをです。それをしっかり感じて「これで思い残すことなし」とでも思ったんじゃないでしょうか?

私は私で生前夫がよく言っていた「管に繋がれて生き永らえたくない」という言葉が常に胸にありました。3か月と12日、そのことが苦しくて苦しくて仕方なかったのです。でも医学上、私の意思でそれをどうにかできることではなく、ただただ悔しさを感じているだろう夫の心を想像するしかできなかったのですが、意思を発せられず管に繋がれた状態からやっと、やっと解き放たれ自由になれたことを私は喜んでいました。私や家族の側からいなくなる悲しみより、夫が自由になれた喜びの方が大きかったのです。


今、夫は私の横に居ます。夜は夫の横で眠ります。
その姿は生前の大きな体からはかけ離れた小さな小さなものですが、毎日同じ屋根の下で過ごせています。声をかけても返事はありませんが夫が返しそうな言葉はちゃんとわかります。だから私は大丈夫です。
夫は私にトレーニング期間を与えてくれました。11月29日に突然の別れとなっていたら今の私ではいられなかった。私の心が少しづつ慣れるように3か月という時間を頑張っていてくれたんだと思えます。

今はまだ夫の魂は私の側にいます。
遠くないうちに私たちが見たことのない地へ旅立つのでしょう。だから今は側にいることを喜びたい。その間に気持ちを整えて夫の旅立ちを見送りたいと感じています。