旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

分かち合いたかった

夫は生きたかったんだと思う。
というか、まさか自分が死んでしまうなんて考えなかっただろう。
いや、その胸の痛みに死を覚悟したのだろうか。

私の選択が夫にとってよかったのか悪かったのか、答えはわからない。けれど今更私が悩んでは夫が浮かばれないだろうという気持ちには至っている。




夫が自ら救急車を要請したのはその後病院に運ばれて胸の痛みは取り除かれることを願ったからだろう。それは「生きる」ことを望んだことと理解していいと思う。
もちろん瞬時に考えなかったとしても、次に意識を取り戻したら傍らに私がいることは十分想定内だったと思う。しかしそれは叶わなかった。
私は夫の回復を願った。まだこれからも夫と生きていきたかったし、その時の夫の苦痛や恐怖を分かち合いたかったから。夫がその時の気持ちを私に発することで夫の恐怖を和らげたかったから。
だけど夫はそれを発することなく一人で抱えたまま逝ってしまった。
今願うのは私たち家族の気持ちが夫に届いていて欲しいということ。
「一人じゃなかったんだよ」って。

まだ急性期の病院に入院している時、医師と「今後の話」をする機会があった。それは今後急変があった時に積極的な治療をするか否か。
私は「しない」ことを選んだ。その時夫は既に意識障害を起こしたままで「管につながれて生きている」状態だった。
それは夫が望んだ生き方ではなかったし、望んだ死に方でもなかった。しかし過去の言葉を真に受けて積極的な治療をしないことを選んだ私に夫は「違う!違う!このままでも生きていたいんだ」と伝えたかったんだろうか。
夫が一切の意思表示ができないまま逝ってしまった以上、答えはわからない。
だから私は今更悩まず「夫にとってそれでよかったんだ」と思わないことには夫の生き方を否定することになるし、私は一生間違いだったかもという負荷を背負って生きていかなければならない。

私は夫の生き方を尊重したつもりだし、今は自分の悲しみより夫が自由になれたことを喜びたい。
死んでしまうことが自由になれたと言えるのかはわからないけれど、その魂がどこかにつながれた状態でなく行きたいところに行けるならそれは自由だと思う。
病院のベッドにつながれた体ではなく、今夫は自由に動き回れていると私は信じている。自分の意思を言葉で伝えることはできないけど、テレパシーが私に送られているかもしれない。
私はそれを明確に認識していないけど、私の今の行動は夫に動かされているのかもしれない。

生きてあの時の苦痛や恐怖を聞きたかった。分かち合いたかった。今はそんな私や家族の想いを何らかの形で感じて「一人じゃなかった」って思えていると信じたい。