旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

間違いだったのかな

夫が亡くなって2週間が過ぎて、私は日々泣き暮らしていない。
日常生活も普通に送っているし、家族としゃべって笑うし、ごはんもしっかり食べている。
ぽっかり穴が開いたように感じたのはもう3か月以上前のことなので、穴の開いた状態にはすっかり慣れてしまった。
ただそうして暮らしている自分が前向きなのか冷たいのか、ずっと自問しているけど答えはでない。

夫が倒れてしばらくしてその状態がよくない時に医師から「今後のこと(延命治療の可否)を家族で話し合って決めておく大切さ」を説かれた。
私は義実家に、夫がよく言っていた言葉や想いを伝えた上で「家族としての意見」を求めた。
親兄弟は夫と離れて暮らして数十年が経っており、日常の他愛無い会話からピックアップされる「夫の考え」を拾えない状況だと思ったので、なるべく私の意思が入り込まないように純粋な夫の言葉を細かく伝えたつもりだったけど返ってきたのは「しゅうちゃんの思うように決めたらいい」と「私たちには何もできないから」だった。

良くとれば長く一緒に暮らした妻の気持ちを第一に尊重してくれてる言葉だけど、その時の私は「あぁこういう選択に深く関わりたくないんだな」と取ってしまった。
延命治療をすると選択すれば将来わずかでも回復する可能性はあるとしてもその分心身的・経済的負担も長く続く。それを背負えないと思うなら無責任に「こうしてほしい」とは言えないんだろう。
その決定は私一人に委ねられた。私は「夫の考え」を尊重するということを盾にして延命治療しないことを選んだ。

本当にそれでよかったのだろうかと今更思うことがある。夫は四肢・意識障害のある状態でも生き続けたかったのかもしれない。私がそれを断ち切ってしまったかもしれない。
最近眠りが浅い。夜中に何度も目が覚めるのだが体がガチガチに強張っていて、疲労感たっぷりで目覚める。
そして次の眠りまでの間に考える。
「私の選択は間違っていたかもしれない。」
夫はもうこの世にいなくて、その正誤は一生わかることはない。答えは出ないとわかっていても考えてしまう。

そのない答えを頭から消すために「前向き」に日常生活に取り組んでいると、夫の「死の時」を選択したくせに平然と過ごしているようで自分の冷たさに苦しくなる。
今の私全てが間違いの道ばかり選んでいるような堂々巡りは時間が経てばなくなるのだろうか?
それを人に問うても意味がない気がしている。間違いだと言われても悔やみ、間違いじゃないと言われても安堵できないだろうから。
自分で消化するにはどのくらいの時間が必要なんだろう。