旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

親しい人ほど会いづらい

この半年、プライベートで人に会う機会は少なかった。
もちろんコロナ禍であり会合は控えましょうというお触れに従い・・・というのもありますが、正直億劫さが先立っているのが本音。
社会生活をしていれば人と関わらない訳にはいかないものです。
一時的なものであれば私の「事情」が絡まないので気軽なものだが、親しい人ほど会いづらいもので。

私にも心を砕いてくれる友人は何人かいる。
保育園から幼馴染の彼女らには結末のみを話している。
時折、お茶でもどうかと連絡をくれるのだけど、そこに出向いて行くことが今はまだ億劫で仕方がなくいい返事を返せずにいる。
彼女らはきっと私を心配してくれているし、負担にならないようにと本当に時折案じていることを知らせてくれる。
それがわかるから、そこに頼れずにいる自分が申し訳ないと思うのだけど、飛び込んでいけない。

彼女らはそれを強要しないけど、会えばきっと「事情の顛末」を話すことになるだろう。
それが怖い。
詳細を知られるのが怖いのではない。
あの一連の出来事を一から話すということは自分自身が再び死に至る工程を噛みしめるということになる。
あの苦しかったり悲しかったり空しかったり歯がゆかった出来事を今繰り返す勇気はない。
誰にも侵されることのない繭の中でぬくぬくとしていたいのに、自分で殻を破って伏魔殿に足を踏み入れることはできない。
日常に紛れて出来上がった瘡蓋を剥がし、じゅくじゅくした傷をあらわにすることはできない。

それは弱さかもしれないけど、それなら私は強くなくていい。
何度も反芻することで受容していくのかもしれない。痛みにも慣れて、やがてそれが和らいで受け入れていくのも一つの方法だろう。
でも私はいつか瘡蓋が自然に剥がれるまで、その下にしっかりと張りのある皮膚ができるまで、私は自分を甘やかしたい。
「もう皮膚ができたかな?」と少しだけ瘡蓋を剥がしてはその痛みに涙する時々に、「よしよし、まだいいんだよ。無理に剥がす痛みなんていらないよ。」と思い切り甘やかして生きていく。

彼女らの気持ちはしっかり受け止めているしありがたく思っている。
逆の立場なら私も同じようにしただろう。
どうかそっけない私を許してほしい。
でも今は頼りになる友人になし崩しに頼って近道するより、びっくりするほどの遠回りをしたいんだ。