旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

あ、これ罪悪感だ

夫が倒れてから今日で8か月。もうそんなに経ったの?嘘でしょう?
ってのが第一感想。
私にとっては夫が倒れたのはつい先日のことのように感じてるのに。
世界は動いてるんだな。




キューブラ―・ロスの死の受容・5段階モデルを知ったのは好きな海外ドラマだった。
それを理解すると何かが変わるかと思って調べていくうちに私には先に読むべき本がある気がした。
夫が亡くなったことは受け入れているけど、もしかしたら受け入れられていないのかもしれない。倒れたのはまだ最近のことでコロナの制限で面会はできないけど入院が続いてる感覚がなくなってないからだ。
もちろんそうではないことはわかっている。だから私は夫の死を受け入れている。

本を開いてすぐにこの言葉がある。

愛する者を失った人にとって、悲嘆にくれるための正しい方法や時間などというものは存在しない。

「永遠の別れ」キューブラ―・ロス

このブログを通じて私と同じような経験をした人と出会った。でもきっとみんな違う。
心の痛みはいつか癒えると信じている。「今日ほど辛い日はない」と思いながら毎日を乗り越えてまた辛い日を迎えてるけどいつかきっと癒える。
だけどその方法も時間もそれぞれ違うのだろう。だから共感することはとても多いけど、同じような経験は同じ気持ちを持ってると思って接してはいけない気がしている。

それぞれに違う悲しみがあり、私は私の、あなたはあなたの悲しみに軸を置いて接したいと思う。




少しづつ気持ちが落ち着いたように見せかけて実は四六時中夫のことを考えている。
仏壇に向かう時はもちろん、こうしてブログを書いていても食事の支度をしていても用事で出かけても車を運転していても・・・いつも夫のことが頭にある。
それは死んだことを反芻してるのではなく、どこに行っても何をしてても夫の影があるということ。
ただ目的地に向かう道中ですら夫と通った立ち寄った影がある。
そうして私はどんどん夫の影を追うようになった。
家に閉じこもらず一人であちこち出かけるのは夫の影を辿っているからだ。
二人で行った場所に行ってみたり、夫がお気に入りだった場所を訪ねてみたり、夫が行きたいと言ってた場所に一人で行く。そして夫に語り掛ける。
もちろん返事はないけど、そうすることを夫も喜んでいるだろうと思いながら赴くのだ。
でもその場所にずっと居られない。1時間かけてその場所にたどり着いてもものの10分でその場を去りたくなってしまう。
ひとりで手持無沙汰なのではない。
今日気が付いた。

「あ、これ罪悪感だ」

夫が元気でいたら二人で行ってた場所、楽しんだこと。それを私はひとりで体験している。
もう夫ができないことをひとりで楽しんではいなくとも体験していることに罪悪感を感じていると気づいた。
夫の影を追うことは私にとって悲嘆にくれるための、心の痛みを癒すための方法だと思っているけど、その行動に罪悪感を持つ必要はないと思っているけど、そんなことで罪悪感を持つことを夫は決して望んでないだろうけど。
夫の影を追うことで罪悪感が生まれるならそれを止めることが癒しへの一歩なんだろうか。


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以前、家族で行った公園に今日はひとりで行った。
木陰に座ってお昼を食べた。
運河でどこかの漕艇部がボートの練習をしているのを眺めた。
本を読みだしたけど自分事にいちいち置き換えて読むからなかなか先に進まない。
暑い日だったけど木陰は涼しい風が通って居心地は悪くなかった。
なのに隣に居ない夫を思うととても居心地が悪くなって、1時間ももたずその場を後にした。