旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

2021年1月4日

今日から世間は仕事始めですね。お勤めの皆様ご苦労様です。
朝テレビをつけたら各局いつものワイドショーが始まっていて「あぁお正月気分も終わりだな」と感じました。
夫が不在になってからは音がないのは淋しいと垂れ流してるテレビです。

昨日はなぜか心がざわざわしてしまう一日でした。
「いつもの正月の過ごし方」とは随分違う年始が3日目になって、何をするにも「夫がいたら」と思い出すばかりです。
日数で言えば最後に主治医と話してから1週間。今までもそのスパンで病院から連絡があったりこちらから連絡してみたり。
でも今までにないほどの「夫欠乏症」。一瞬息が出来なくなってグッと喉に何かが詰まり胸が苦しくなったかと思うとプハっと吹き返す。それは呼吸なのか溜息なのかわかりません。

それでもなるべく「平常」で過ごそうと家族と話したので祝わないという選択はなかったです。
年越しにはお節とお雑煮を用意し家族揃って新年のあいさつをしました。2日には初詣も行きました。料理人の弟が「いつもの正月」として焼肉や蟹を用意してくれてご馳走もいただきました。子供たちが好きなものでたくさん食べて喜んでました。
でも残ってしまったんです。
白子やウニや甘エビや・・・母が言いました。
「夫さんがいたらお酒のアテに喜んで食べてくれるのにねぇ」
そうだね、贅沢やなぁって言いながら喜んで食べてただろうね。

そう言いながら病室で横たわる夫の姿が浮かんで彼の無念さに思い馳せるのです。




人の生死ってなんなんでしょうね。
脳死とか心停止とか定義されているものではなくて、意識はなくて人工呼吸器と経管栄養と透析でただ横たわっている状態を「生」と言えるのか。
「死」の定義から離れてるから生かさねばならないのか。
それでも生きていて欲しいと願う家族がいる。それなら終わらせてやりたいと思う家族がいる。

以前から夫と話していた死生観をもとにするなら夫の今の状態は夫曰く「死」なんです。「管で繋がれてただ生かされるのはいやや」とよく夫は言ってました。でも世間では「死」と認められないから生かされている。
こういうことを私は医師に言ってません。伝えるべきなのか伝えることではないのかわかりません。いったところで何か変わるのでしょうか?

ただ生きることに貪欲だった夫が自身の中でまだたくさんやろうとしていたことを残して突然止まってしまった時。
本人の意思に従って止めれるものなら止めてやりたいと思うのは私のエゴなのでしょうか。