旦那が救急搬送されて不安しかない妻のブログ

夫が無事回復したら見せるための備忘録です 改、日々の心情を綴ります

永遠の58歳

11月1日
今日は夫の誕生日。永遠の58歳になった夫だけど、私にとっては思いを馳せたい一日です。

ブログを書くのはとても久しぶり。吐き出したい気持ちは常にあったけど、仕事のことが色々辛くブログを書く気力が全く湧かなかった。
それが今書こうとしたのは夫の誕生日だから。
私を奮い立たせてくれるのは今も夫というわけです。

8月半ばから勤めだした医療事務の仕事は一応続いてます。
が、毎日辞めたい気持ちに押しつぶされそうになっています。
多忙だからではなく指導者との関係が上手くいかなくて人間関係に疲れ切っています。

心理的に辛い思いをしてまで居続ける必要はないんじゃないか?
そりゃ経済的に仕事をしないわけにはいかないけど、まだ勤めだして浅い職場だから切り替えるなら今なんじゃないか?
その反面
指導者は11月末で退職するのであと1か月の辛抱だ。
先々のことを考えると今踏ん張って乗り越えると展望も開けるのでは?

その1か月が耐えられそうにない今日この頃。
行ったり来たり気持ちはゆらゆらしています。
愚痴は言い出したらキリがないけど、吐き出せる相手がいないので一人で悶々とする日々。
こんな時、夫がいたらなと思うのです。
「なんとかなるよ、あと1か月辛抱してみれば?今までも色んな困難乗り越えてきたんだからしゅうならやれるよ。愚痴吐き出して寝て食って朝には一からやろう。」
「そんなにしんどいなら辞めちゃえよ。職種は違ってももっと気持ちを軽く働ける仕事もあるし、気持ち病んだら意味ないんだから。」
なんて無責任でその場限りの言葉でも背中を撫でてくれる言葉をかけてくれたあの日が恋しい。




先日、友人と「人は死んだらどうなるんだろう?」って話した。

ドラマや映画であるようにどこかで大切な人を見守ってるんだろうか?
それとも生前の記憶はなくなって、どこかにある新しい世界でそれなりに暮らしてるんだろうか?
残された人はお墓や仏壇に語り掛けて気持ちが伝わってほしくて、今も繋がっていたくて、死後の存在は昔のままと無意識に思いがちだけど。

友人は「私は『無』になるんだと思う」と言った。
だって側で見守るように居るとしたらこの辺亡くなった人だらけで大混雑じゃんって(笑)
それに残した人のことを心配して胸を痛めたり、まだ生きたかったと名残を残すのって死んでまで苦しむ必要ないしって。

なるほど。
見守っていてね、側にいるのを感じる、と思うのはこちらの勝手な願望で、残した家族の側で「ごめんな~ごめんな~」なんて泣いてほしくない。
あの瞬間にパスンと無になって苦からは解き放たれていて欲しい。

それでも私は仏壇に語り掛けるけど、それはこちらの問題で心の平穏が保てるならいいんだよ。
と思っている。




夫の58歳の誕生日を二人で祝ってから1年が経った。
私はいつも想い出を辿っている。
カレンダーの日毎に、イベントに、家族との会話の端々に。
たとえあなたが草葉の陰にいなくても、無になっていてもいい。
私は生きていて、たくさんの思い出が私の中にあるから、それを辿ってあなたの判断を思い出し、行動を辿り、私の指針となるように。

二度目の58歳の誕生日おめでとう。
私があなたの年に追いつくまで、あと9年は。
なんとかがんばりたいものです。